俺の名前は、南雲 宗一郎。大学生だ。 とはいえ、留年に次ぐ留年で、年齢的にはとっくに卒業しているはずの歳になってしまった。だがそれも今年の夏まで。一念発起した俺は飲みサーを辞め、細かいバイトを転々として貯金を作りつつ、勉学に精を出していた。 遊びまくっていた頃を知っている連中には随分揶揄われたが、それも半期が過ぎる頃には収まった。そんな冬の折、俺はとある不思議なバイトを請け負った。 1.詰草書房 「これで全部ですか?」 冬もかなり厳しくなってきたというのに、汗がだくだく流れて止まらなかった。 本屋というのは、見かけ以上に肉体労働だ。たかが紙束、されど紙束の重さをダンボールに一杯抱え、店内から運び出す。何往復したかは、背骨が軋みはじめたあたりから数えるのをやめた。 俺の積み上げたダンボールを検分し、今回の俺の雇い主、片喰さんは、満足げに微笑んだ。 「ああ。さすが、若い人は頼りになるな。」 片喰さんも、見た目こそ総白髪のせいで歳を食って見えるが、まだ40歳だと聞いた。彼は彼で、運び出されたダンボールから本を選り分け、虫干しのために、軒下へ出された棚へ並べていく。それだって楽な仕事ではない。 手に取っていた本を棚へ納め、片喰さんはふうっと溜息をついた。 「一度休憩しよう。柊夜にも声をかけてやらなくちゃな……」 古本屋の書庫整理。 とりわけ目立つ広告でもなく、その記事は、アルバイター募集のチラシの片隅に埋もれていた。けれど報酬はなかなか魅力的で、短期で金払いのいいバイトを転々としていた俺はすぐさま、連絡先の電話番号へかけた。電話口に出たのが片喰さんだった。話は簡単に纏まり、一度面接を受けたが、それも他愛ない雑談のようなもので、 思うに片喰さんはバイトの面接なんかしたことがないんじゃないだろうか。話の内容はこうだ。: 「オカルトに興味は?」片喰さん。 「なくはないですね。」俺は答える。 実際、この夏の出来事と体験を思い出すことは、ぞっとする作業ではあったけれど、俺は自分の見聞きしたものの本質を知りたいと願っていた。今ならどんな未確認生物の存在も信じられると思った。俺の理解の及ばない事が、この世にあることを知った。そして、それでも尚知りたいと思っている。 片喰さんは笑った。夕暮れの店内に、陽の光が赤く差し込む。端正な顔立ちの人だ。イケメン、というよりは、綺麗な男、という印象。笑うと目元に微かに皺が寄る。 「じゃあ、ひとつ話をしてあげよう。この宇宙で最も忌み嫌われ、どんな生物にも遍く憎まれた生き物の話だ。」 片喰さんは、手で狐を作った。その口吻をぱくぱくと動かし、「やあ」と言わせる。その時点でだいぶ変わった人だと思った。 「この生き物は、宇宙の理に属していない。彼らの次元から、好きなように、好きな時間、好きな空間へ飛んでこられる。そして、彼らの仕事をするんだ。」 「仕事?」 片喰さんはすっと唇を歪めた。「殺戮さ。」 「今、君はこの生き物に睨まれた。逃げなくちゃならない。でも、彼らは好きな時間、好きな空間へ飛んでこられる。さて、どうやって逃げる?」 狐の影がゆらり揺らめいた。俺は考えたが、そんなものに追われてはどうしようもない。素直にそう答えた。 「逃げるのは無理でしょう。戦うことはできますか?」 「不可能ではないだろうけれど、どうやって彼らの出現を予測する? 戦おうと武器を取ったその瞬間、君の頭は彼の口の中かもしれないぞ」 ぱくりと狐が、俺の影を齧る。 「では、出現を予測する方法はありますか?」 「ある。まず、彼らは何処からも出てこられるわけじゃない。とある角度が必要だ。彼らの次元の時間の角度と、我々の住むこの世界に、一致する角度が無ければ、出現は不可能だ。それを依代に彼らは現れる」 「なら、そこで待ちます。なんなら、その角度を壊してしまえばいい。」 「角度を壊す?」 「例えば……円系とか。円なら、角度を持ちませんよね。」 「なるほど。しかし円系は360度というひとつの角度とも言える。」 「それを言ってしまうと、この世に角度のないものなんてありませんよね?」 「ああ、そうさ。だから彼らは、何処からも出てこられるんだ。」 「お手上げですね……」俺は降参した。 何故この話題で俺が「合格」だったのかは未だにわからない。不思議な人の不思議な面接だから、気にしないほうが良いだろうと今は納得している。 片喰さんは、店内で作業をしていた、もう一人の従業員にも声をかけ、俺たちに珈琲を淹れてくれた。 そのもう一人の従業員というのも変わった人で、まず髪なんか緑に染め上げていて、赤のメッシュが入っていた。歳は俺より下だろうし、もしかすると未だ成人していないのかもと思うほど、無邪気というか無垢な目をしていた。けれど態度は抜群に上からで、仕事中にも、サボったらぶっ殺すぞ的な顔をされたこともある。いつも長袖の服に手袋を嵌めたままで、上着のパーカーはフードを被りっぱなしだった。 名前を柊夜(なかなかのキラキラネームだ)という彼は、長い八重歯を覗かせて、嬉しそうに笑った。俺が呼びに行ってもああいう顔はしない。何とはなく、事情は察せられた。彼は俺のようなアルバイトではなく、ここに住み込みで働いている。 「このまま行けば、明日には終わりそうだな。南雲くん、本当にありがとう。」 砂糖をざらざら、ミルクもたっぷり山程入れた珈琲を啜り、片喰さんは微笑んだ。柊夜は、自分も褒めてくれと言わんばかりに身を乗り出した。まるで仔犬だ。 「こっちもだいぶ片付いたぜ。陣がいらないって言ったのはぜーんぶ箱に入れたからな!」 「柊夜も、よく頑張ったな。おかげでだいぶ、すっきりした。」 片喰さんは、柊夜の頭を撫で、ぐるりと店内を見渡した。壁面を埋め尽くす本棚の、3分の1ほどが空になっている。 「本、捨てちゃうんですか?」 「棚を半分ぐらいにして、売れなさそうなものは処分することにしたんだ。もし欲しいものがあったら、持って行ってもいいよ」 「ありがとうございます、後で見てみます。」 実際この詰草書房という店は、店主に負けず劣らず、奇妙な店だった。窓はほとんどダンボールや新聞で目貼りされ、日光が入らない。もっとも日光は紙を日焼けさせてしまうものだから、それを忌避しているのかもしれない。しかし、表から見ただけでは、営業しているのかすらわからない古本屋に、誰が足を踏み入れるのだろう。俺なら近所の古本チェーンに行く。 また、レジの奥にあるバックヤード、さらにその奥にある階段も不思議だった。生活スペースに繋がっているから入らないで欲しい、と言われたが、普通生活スペースは上階に作らないか? 何かとんでもない秘密があるのかもしれないな、と、俺は供されたコーヒーを舐めながら考えていた。 と、その時、店の入り口についているベルが、チリンチリンと澄んだ音を立てた。片喰さんが立ち上がる。闖入者は慌ただしく、店内に駆け込んでくる。背の高い女性だった。スッキリとパンツスーツを着こなし、ずり落ちた眼鏡を目鼻立ちの整った綺麗な顔にとどめ、取り落としそうになっていた茶封筒を、手にしっかりと握る。 すごぶる付きの美人だ。目は切れ長で、薄化粧がよく映えている。橙に近いピンクの口紅が、違和感なく、完璧に顔を引き締めていた。髪は濃いめの茶髪で、背中に流してある。一房だけ編み込みがあるのが、少女のような無邪気さを感じさせた。 彼女は見かけに違わぬ口ぶりで、俺たちに問いかけた。 「此方に、柊夜という人はいるだろうか?」 突然名前を呼ばれた柊夜は驚き目を見開いた。どうやら状況がわかっていないのは、俺だけではないらしかった。彼女は柊夜に気づくと、凛と笑んだ。 「すまないが、力を貸してはくれないか?」 こうして、俺の新しい冒険は、幕を開けた。 2話へ続く