2.見えない音 「申し遅れました。私は天賀(てんか)レコーズの白樺 白亜(しらかば はくあ)と言います」 白樺さんは、そう言って、名刺を差し出した。天賀レコーズは聞いたことがある。かなり大手のレーベルで、V系やロック中心に扱っていた筈だ。 片喰さんに出されたコーヒーを一口飲んで、白樺さんは、柊夜をじっと見つめた。 「柊夜、というのは、君かい?」 「俺だけど……何の用だよ」 柊夜は白樺さんを警戒したらしく、きつく睨む。そりゃ突然やってきた見知らぬ人にいきなり名前を呼ばれたんじゃ、仕方はないと思うが。まるで人馴れしていない獣のような睨み方だった。 「Renをご存知かな?」 れん? あのRenだろうか。 ニッチな曲作りに定評のある作曲家だ。男か女かも、年齢もわからない。絶対に顔出ししないらしい。何で俺がそんな事を知っているかといえば、そのニッチには病的にハマるファンが少なからずいて、そのひとりが俺の2年前の同期だったのだ。何枚もCDを貸してもらったのだけれど、俺はいまいちピンと来なかった。それでもその曲は強烈に印象に残っている。 柊夜は首を横に振ろうとしたが、白樺さんはそれを遮った。 「ああ、すまない。活動名義じゃわからないよな。烏丸 恋(からすま こい)を知っているかい?」 「……恋、って……」 あの恋か、と驚きに声を漏らす柊夜に、白樺さんは質問を重ねる。 「知っているらしいな。此処へ来なかったか?」 「来てねぇ。というか、もうだいぶ、会ってねぇし……」 俺は口を挟まずにはいられなかった。白樺さんが何を求めているのか気になったというのもあるし、柊夜があのRenと知り合いなのだということも、もっと気になっていた。 「あの、そのかたが、どうかされたのですか?」 「ああ……そうだな、先にそれを話したほうが良いかも知れない。ここから先のことは、口外しないと約束してくれるか?」 俺は深く頷いた。柊夜も、片喰さんも。白樺さんは少し安堵したように、小さく息を吐いた。どうやら、Renのプライベートは、よほど厳重に守られなければならないものらしい。 「私はRen……烏丸のマネージャーをしていてね。実は、社から頼んでいた楽曲の納期が近いのだけれど、本人と連絡が取れないんだ。元々、ふらっといなくなることのある子ではあったが、連絡が取れないということは無かった。それに……、」 白樺さんは、茶封筒を開けた。そこから紙束を取り出し、机上に広げる。 「事務所にこんなものがあった。字は確かにあの子のものだと、私は思う。」 「拝見しても?」 片喰さんは、紙束を手に取る。白樺さんは頷いた。俺は傍から、その紙束を覗き見る。1枚目の紙にはこの詰草書房までの地図と、「柊夜 様」と書かれていた。それで白樺さんは、ここまで訪ねてきたのだろう。2枚目からは、楽譜のようだ。 楽譜は殴り書いたように雑で、取り止めがなく、ページを捲るにつれて、その筆跡は乱れた。遂には音譜が形を留めなくなり、ぐちゃぐちゃに塗り潰され、グロテスクな模様に成り果てた。思わず背筋が冷える。 そのページの最後には、震えた文字で、小さく「ごめんなさい」と添えられている。 「柊夜くん、何か、これを見て、烏丸の行き先に心当たりはないか?」 「いや……でもこれ、恋が書いたんなら、その、頼まれてた曲じゃねぇの?」 「私も最初はそう思った。手の込んだイタズラだろうと思ったんだ。普段、納品は音源をそのまま貰っていたから、イタズラのつもりじゃないかと。でも、よく見ればこの楽譜は曲の体裁になっていないし、烏丸とは連絡が取れない。何かあったんじゃないかと思ってね……。」 曲の体裁になっていない、の部分で、片喰さんは頷いた。この人は楽譜が読めるらしい。俺と柊夜は、頭にハテナマークを浮かべた。片喰さんはそれを察してくれたようで、楽譜を手に取る。 「1枚目、これは某コンビニの入店チャイムの音。2枚目のここからは、ほら、」 片喰さんが口ずさんだ音には、確かに聞き覚えがあった。この冬新作が上映されている、SF巨編映画のメインテーマそのものだ。 「あとの部分はいまひとつわからないけれど、乱雑に、音を並べたという感じの部分もある。これはとてもじゃないが、仕事として作った曲とは言えないだろう。それに、この楽譜には主旋律しかない。メロディーだけなんだ。」 「全くその通りです。それで、柊夜くんに見せてみれば、何かわかるかと思った次第で。」 柊夜はしばらく考え込んでいた。俺はふとした思いつきを、片喰さんに振ってみた。 「暗号……なんてことはないですかね? ほら、よく漫画とかで、楽譜を暗号にするやつ、あるでしょ。」 片喰さんは首を傾げた。 「漫画には疎いけれど……そうなのかい? 確かに、楽譜を暗号にする手法は、古くバッハの頃から存在し、「エニグマ協奏曲」なんかは、楽曲としても成立するように練りこまれた暗号だ。古典的な手ではあるし、俺もさっきから色んなパターンで解読しようとしているんだけど、どんなパターンにも嵌らない。」 暗号、という表現に、白樺さんが身を乗り出したので、俺は思わずイケると確信したが、片喰さんの冷静な分析に、その自信は打ち砕かれた。片喰さんは、俺の思いつきなんかとっくに検証済みだったのだ。 「もしこれが本当に暗号なら、逐字暗号……つまりひとつの記号がひとつの文字に対応したものだろうと思う。この逐字暗号方式には弱点があってね、頻出する文字は、記号化されていても頻出する。英語なら、最も多い記号をeに当てはめ、単語を作れば解けると言われている。」 そこで片喰さんは楽譜をちらと見た。柊夜は未だ、楽譜を睨み、考え込んでいる。 「それも踏まえた上で、既存のパターンもいくつか試してみたが、全くダメだ。これが暗号なら、完全にオリジナルということになるし、ヒントがないと解きようがない。それじゃ暗号の意味がないんだ。」 「暗号の意味が、ない?」 解きようがないのなら、それで意味を成しているのでは、と俺は思った。ところが片喰さんは、その逆説を述べる。 「暗号は、解かれるために書くものだ。その鍵を持つ限られたものだけに伝えるために。これが柊夜に向けて書かれたものなら、柊夜が復号できなければ、暗号の意味がない。だからこそ、古典的な暗号手法はあり得ないとも言える。柊夜と仲が良かった子なら、尚更、柊夜に難解な暗号を与えたりはしないはずさ。」 一理ある。誰も解けないパズルを作り出したところで、それはパズルの意味を成していない。まるでパラドックスの問題のようだ。 「どうだ、柊夜?」 「どうって………俺、楽譜なんて読めねぇし……でも、」 柊夜は、楽譜をぱらぱらと捲った。歪な音符を眺め、小さな字を眺め、溜息をついた。 「素直じゃねぇんだよ、あいつ。助けて欲しいって素直に言わねぇんだ。きっと……今回もそうだ。絶対俺のこと待ってる。」 だから俺にはわかるはずなんだ、と、再び、楽譜を睨みつけに戻っていく。けれど、俺はそれじゃ埒があかないと思った。英語の読めない人に英語で手紙を書いたところで、何も伝わりはしない。ローマ字ならまだ何か伝わったかもしれないけれど。というか、それ以前に。 「これが助けて欲しいって意味だったとして……地図でもなくっちゃ、ご本人さんが何処にいるか、わかんなくないスか?」 「地図……」 柊夜は、ふと思いついたように、白樺さんを見上げた。 「あの、事務所の近くか、恋ン家の近くに、コンビニってあるか?」 「家は知らないが……事務所の前に、コンビニがある。」 「それって、この?」 柊夜が指さしたのは、楽譜の1ページ目、片喰さんが「コンビニの入店チャイム」と指摘した部分だ。 「あぁ、そうだ。それがどうかしたのか?」 「地図……かもしれねぇ。これ。きっと、恋はこの場所で待ってる。」 その言葉に、俺は片喰さん、白樺さんと顔を見合わせずにいられなかった。 3話へ続く