3.恋の行方 柊夜に促されるままに、俺たちは天賀レコーズの事務所前の、コンビニを訪れていた。しかし其処には当たり前のように、烏丸の姿はない。あれだけ自信満々に「この場所で待ってる」といった割には、と思って柊夜を見れば、楽譜とコンビニの周囲を見比べ、きょろきょろと何かを探している。 「あの、流石にこんなところに居たら白樺さんも気づくでしょう。ここじゃないと思いますよ、俺は」 「当たり前だろ。それよりお前、これ読めねぇのかよ?」 「俺は読めませんね。片喰さんか白樺さんに……」 片喰さんは、ちゃっかりコンビニで甘味を買っている。何してんだ、この人。柊夜はそれは無視した。もう、この人が何か余計なことをする事には慣れているんだろう。 「陣、これどんな音だ?」 「どんな、って? ピアノでも有れば音は出せるけど……俺も音感があるわけじゃないからな……ええと、」 「そういう事なら、ちょっと待ってくれ」 白樺さんは、提げていた鞄からタブレット端末を取り出し、操作し始めた。どうやら、楽譜の音の羅列を、アプリか何かに打ち込んでいるらしい。片喰さんは感心する目でそれを見ている。 「そんな事も、携帯端末で出来てしまうのか。俺はまるきり浦島太郎だな……」 その言葉の意味はよく分からなかったが、打ち込みを終えた白樺さんが、音を再生し始めたので、俺は質問の機会を逃してしまった。 高音と、その音からやや下がった低音の繰り返し。なんだか聴き覚えのある音だと思ったが、いまひとつピンとこない。ところが、柊夜は何か気づいたらしい。上空を指差す。 「あれだ! きっとあっちだ!」 指の先には、歩行者用の信号機が立っていた。やがて青の点灯へと変わった信号機は、カッコー、カッコー、と音を鳴らす。それは確かに、白樺さんが再生したのと同じ音だ。 「信号機……?」 「……成る程、それで地図か。地図というより、道案内というべきか?」 片喰さんは、柊夜から地図、もとい楽譜を借りる。そして、白樺さんと俺に見せた。柊夜もそれを、横から覗き込む。 「コンビニのチャイムと信号機の間は四分休符、次の塊と、その次の塊の間も四分休符。この四分休符から四分休符の塊が、マイルストーンの役割を果たしているんだろう。」 「つまり、コンビニをスタート地点として、信号機の方向へ進む、ということか?」 白樺さんの問いかけに、片喰さんが頷く。白樺さんは少し考えて、そういえば、と口にした。俺はふたりの会話について行けず、小学校の頃のたのしいおんがくの記憶を掘り起こしていた。 「この先に、映画館があるな……。」 「……昔、よく、恋とこういうことして遊んだんだよ。ふたりとも金も無くて、退屈だったから。」 「こういうこと?」 「音当てだよ。恋がギターで弾くんだ。何かの音を。俺はそれがなんの音か当てる。ポテトが揚がる音とか、電車が来る音とか。」 なるほど。Ren、もとい烏丸さんは、だから柊夜へ宛ててこの楽譜を書いたのか。それなら、片喰さんが言っていた、「柊夜には復号できるはず」という理屈にも敵う。 「それを、道順に並べたってことか……。すごいですね……。」 「つまりこれは、見たまま、聴いたままの全てをそのまま書き記した地図なんだな。偉いぞ、柊夜」 「べ、別に。俺だって、恋のこと助けてぇし……。」 少し俯いて、柊夜は照れを隠すように、楽譜で顔を覆う。そしてふと思い出したように、白樺さんに問いかけた。 「映画館て、どっちだ?」 「このまま真っ直ぐだ。通りに面したところに、大きなスクリーンがあって、予告なんかを流している」 暫く歩けば、その映画館は直ぐに見つかった。スクリーンは、SF大作の予告CMを流している。 そこからは、軽くクイズ大会の様相を呈し始めた。白樺さんがアプリに打ち込んだ音源を聴いて、何を示しているか当てる。ディスカウントストアのテーマソングだとか、駅メロだとか、あるいは雑踏、あるいは呼び込みの兄ちゃんの声なんてのもあった。烏丸さんは、まさしく聴いた通りを、そのまま楽譜に起こしたのだろう。なんという聴覚! そして、俺たちは、市民ホールの前へたどり着いていた。この先の楽譜は、ぐしゃぐしゃに塗り潰された、例のやつだ。俺は正直、あの譜面を二度と見ようとは思えなかった。得体の知れない感覚は、かつて感じた厭感とよく、似ている。 市民ホールといえど、何のイベントも催されていなければ静かなもので、併設された美術館の常設展も、俺がチケット切り係りなら退屈で死んでしまうほどの人入りだった。市民ホールの中には、音楽ホールが大小ひとつずつあった筈だ。俺たちはそっちに狙いを定めた。おかげでチケット切り係りは退屈で死んだと思う。 ロビーに入った時から、微かにピアノの旋律が聴こえた。白樺さんを見ると、アプリは触っていないし、違うと言うように首を横に振った。 「烏丸さんは、ピアノは?」 「弾ける筈だ。私が知っているのは、キーボードだが……」 片喰さんは眉を顰めた。 「防音設備がどうかしてるんじゃなきゃ、ホールの外で弾いてるんだろうが……見当たらないな」 柊夜は、音の出所を探るようにうろうろしていたが、やがて小ホールのドアに、そっと近づき、耳を寄せた。 「……この中だ。」 みし、と微かに軋む音とともに、ドアを開ける。ピアノの音が明確になった。ホールの中はほとんど真っ暗で、段々になっている客席の階段部分に、つまづかないように微かな明かりが灯されている他は、舞台照明が、ピンスポットでグランドピアノを照らしているだけだった。もちろん、観客の姿はない。 いやに、不安を覚える音だった。 ピアノはある時は軽快に、ある時は重厚な音を立てたが、その何もかもが歪とでもいうのか、つまづきながら弾いているわけではないのに、途轍もなく不安になる。軽い吐き気すら覚えるほどだ。 それは俺より音楽について見識のある片喰さんや、白樺さんにも同じのようで、ふたりとも一様に眉を顰め、グランドピアノを睨みつけている。その音の正体を見極めるように。 直感的に、ピアノの出す音ではないと思った。俺の知っているピアノの音とは違っている。何が、まではわからない。ただ言い得ぬ不安と戻りかけた胃液を抱えたまま、リサイタルを聴く。 ただ、柊夜だけは違っていた。一瞬戸惑いこそすれ、客席を蹴飛ばしかねない勢いで舞台へ、奏者のもとへと下っていく。 「恋ッ!!」 ピアノの音はますます激しくなり、弾くというよりも叩きつけるというほうが正しいのではないかと思うほど、乱れ、勢いを増した。俺の感想としては、奈落の底へと真っ逆さまのジェットコースターのテーマソングはこんな感じ、といったところだ。片喰さんと目配せをして、柊夜の後を追った。白樺さんもゆっくりついてくる。柊夜はとっくに舞台へ、それも飛び乗って登っていた。なんつぅ脚力してんだよ。 さすがにそれ程の脚力のなかった俺たちは舞台の脇の、小さな階段を登る。そこで俺は初めて気がついた。 ピアノの脚の下に、夥しく真新しい血痕や、肉片が散らばっている。むしろ、それらのグロテスクな物体は、ピアノの脚を伝い、滴っているようだった。白い鍵盤の上にも、黒い胴体の上にも、鮮烈な赤。白樺さんが嘔吐く音が聴こえた。 「恋!! やめろッ!!!」 柊夜は、そのピアノの椅子から、青年を引き剥がそうとしている。恐らく彼が烏丸さんだろう。両手指が真っ赤になっている。暫く彼らは揉み合い、やがて柊夜が椅子ごと烏丸さんを蹴り倒したので、ついにピアノの演奏は止んだ。 烏丸さんはぐったりとして、虚ろに、柊夜を見る。 「しゅう、ちゃん………ごめんなさい」 その消え入りそうな謝罪が俺たちに届くのとほぼ同時に、大きな拍手の音が、ホールいっぱいに鳴り響いた。 4話へ続く