4.歪曲の協奏者 「素晴らしい。素晴らしい演奏だったよ。最後邪魔が入ったけれどね。」 拍手に交えて、客席から人の声がした。聡明そうで歯切れのいい口調。最前列のど真ん中、その人はスタンディングオベーションで、手を叩きながら、舞台へと近づいてきた。 すらりとした臙脂色のセットアップを纏い、柄の入ったネクタイを締め、小脇に白手袋を抱えている。拍手をするために外したのだろう。椅子にもたせたステッキ、山高帽子。紳士然とした男の人。柔らかい眼差しはやや目尻が垂れていて、右目の下には泣き黒子がある。 片喰さんが絶句していた。俺はこの人を知ってまだ日が浅い。それでも、今迄に見たことのない険しい顔で、片喰さんは黙り込んで、微かに唇を震わせていた。柊夜も少なからず驚いているようで、その様子は、彼らがこの紳士を見知っていることを指していた。 「全く、素晴らしい腕前だ。さっきの彼はパーツとしての方がいい音を奏でているがね……君はこのままで充分素晴らしいと、私は思うよ」 「……あんた、誰です?」 俺は、絶対に訊かない方が良いだろうなと思いながらも、その紳士へ問いかけた。ここまで来てしまっては、引き下がることも、逃げることも、俺にはできなかった。 「『私』が『誰』かは、ほら、彼に訊いてくれたほうが良いだろう。『私』が『何』かなら、私にも説明が可能だが」 紳士はにっこりと、片喰さんへ微笑みかけた。片喰さんは彼を睨み、忌々しそうに言った。 「『君』が『何』かなら、俺にも説明ができる。藍の身体を返せ、この化け物め。」 あおい、と呼ばれた紳士は、手を打って笑う。明らかに笑うところではない。 「化け物! 全く君達ときたら、好き放題に呼んでくれる……化け物、神、けだもの、この世ならざるもの、這い寄る混沌、混沌の徒! まぁ、化け物というのはあまり好みではないな」 「君の好き嫌いなど知ったことか。何故とは問うまい、いいからその身体を置いて去れ。」 「何故と訊いても怒りやしないがね。今日の私はとても機嫌が良いし気分もいい。なに、偶々、あのユゴスのかび共を見ていたら、拾ったまでさ。あれらときたら、脳にばかりご執心で、身体のほうは実験材料程度にしか思っちゃいないだろう? 勿体無い。人間の身体とは素敵なものだよ。楽器にもなるし、……。」 と、紳士は、グランドピアノと、そこに滴るイチゴジャム、もとい肉塊を見遣った。あれは、人間だったのか? 言われてみれば、所々に服らしき布の断片や、指の欠片のようなものが見えた。流石に俺の胃も我慢の限界だった。 「まぁ、とにかくだ。今日の私はただの観客だし、先程も言ったがね、本当に機嫌が良いのさ。彼に感謝し給えよ?」 拾い上げたステッキで、ちょいと烏丸さんを指してみせる。そしてすっと唇の端を歪めた。 「あれが彼を気に入りで無ければ、私が私のために連れて帰りたいところだが………致し方ない。それでは、左様ならだ。」 山高帽を被り直し、紳士は客席の薄暗闇へと消えて行く。片喰さんが追おうとしたその時、放置されていたピアノが不意に、ポ―――ンと、高い音を鳴らした。誰も触ってやいない。弦を弾き、あるいは弦に挟まった肉や骨を通して、歪曲した音がホールに響く。 「一体……何だと言うんだ……!」 白樺さんは震えて座り込んでいた。それも仕方ないだろう。俺もこれにはかなり参っていた。夜中の音楽室のピアノじゃあるまいし! 次第に音は増える。明確に曲の形を成すように……。 「―――――ああああああああああああああああああああああッ!!!」 絶叫は、烏丸さんだった。柊夜を跳ね除け、血塗れのピアノに縋るようにしがみつき、鍵を叩く。その手が赤く濡れているのは、ピアノに触ったせい、だけではない。爪が割れていた。白鍵を、黒鍵を、指先で弾く度に、傷口は新しい血を吹いた。柊夜はすぐさま起き上がると、烏丸さんをなんとか、ピアノから剥がそうとする。俺も震える脚をなんとか動かし、ピアノへ、烏丸さんへ近づく。 「ッおい、やめろ! 恋ッ!!!」 それでも烏丸さんは演奏をやめようとしなかった。全体的に俺よりも、柊夜よりも、細い身体つきの烏丸さんが、その細腕が折れかねない勢いで指を鍵盤に叩きつけ、柊夜と俺の制止を振り切ろうともがいていた。柊夜は完全に、狼狽していた。 「恋……!!!」 「柊夜、違う。弾かせろ。大丈夫だ」 片喰さんが割り込む。烏丸さんが少し安堵したように見えた。柊夜は片喰さんと烏丸さんを交互に見て、泣き出しそうな顔をしていた。片喰さんは、その頭を撫でる。 「大丈夫だ。よく聴いてみろ。」 俺も耳を澄ませた。歪な音の隙間に、凛と響く音が聞こえる。本来のピアノの音だ。恐らくは、まともに弾ける僅かな鍵を選び出し、その音だけで曲を構成しているのだ。清涼剤のように、澄んだピアノの音が胸に沁みた。 どれぐらい、その音の乱舞を聴いていただろう。気付いた時には、歪な音は聞こえなくなっていた。ピアノの音。流れる旋律。 やがてその音は小さく弱くなり、最後には、消えた。 ゆっくりと、烏丸さんが倒れるのが見えた。スポットライトが消える。それと同時に、俺の視界もブラックアウトした。 目が覚めた時には、病院のベッドの上だった。この天井を見るのは夏ぶりだ。あの時と違って怪我はなく、強いて言うなら微かに頭が痛むぐらいで、枕元のスマホを見るに、あの音楽堂での出来事は、昨日のことらしかった。時間ももう昼近い。とりあえず起き上がると、コートを抱えた片喰さんが目に入った。 「やぁ、おはよう。とんだアルバイトになってしまって、すまないな。大丈夫かい、どこか痛むとか、気分が悪いとかはあるか?」 「いえ……特には。……あの、昨日は……皆さんは? 烏丸さんは……大丈夫なんですか?」 「ああ、まぁ、気になるよな。順番に話そうか。あの後、烏丸くんと、君と、白樺さんが倒れてしまったから、救急を呼んでね。勿論、警察もだけれど……。」 そりゃそうだ。 片喰さんは、俺の隣のベッドをちらっと見た。 「烏丸くんなら、大丈夫だ。もう目を覚ましているし、今は柊夜が付いている。白樺さんも、部屋は別だけど、もう起きているよ。」 「片喰さんは、平気なんですか? というか、えっと、あの人は誰なんです? それに、あのピアノは……」 「ああ、それも順番にね。俺と柊夜は、こういうことには慣れっこなのさ。入るなと言った地下室を覚えているかい? 俺の本業はあっちでね……こういった、オカルト関係の調査や、呪い屋みたいなことをやってるんだ。」 詰草書房が潰れない理由がわかった。面接で、俺にオカルトの話を持ちかけたのは、こういったことに耐性があるかを確かめたかったのかもしれない。 「あの人、というのは、藍のことかな。……友人なんだよ。あの身体は。中に入ってるのは、また別のオカルト、あるいは神と呼んでもいいかもしれないものだが……その、藍はもう死んだ筈なんだけれど、屍体が見つからなくてね。厄介なものに持って行かれていたものだ。」 とんでもない事をさらりと言われた気がした。片喰さんはふぅ、と溜め息を吐く。 「それから、ピアノだったかな。あれも一種のオカルトさ。目に見えない神も、また存在しているということ、その証明かな。彼は、音そのものなんだ。邪神のための音楽そのもので、楽隊を率いているとも言われている。烏丸くんは……藍の言葉を借りるなら、それに気に入られていたんだよ。」 「音の神様に?」 「そんなに良いものじゃないさ。言うならば、邪な音を奏でる意思。烏丸くん本人が話してくれたよ。突然だったそうだ。藍にあのホールへ連れて行かれ、ここで弾く音を用意してこいと言われて……その時から危ないと思っていて、あの地図を書いたらしい。いつ、もう一度、連れて行かれるかわからなかったから。」 ならば回りくどいことをせずに、ここだと書けば良かっただろうに。態々、あの形で楽譜を遺したのは、口止めされていたか、或いは無為に、誰かを巻き込まないため、だろうか。 それに、音を奏でる意思。それが神でないなら、何だというのだろう。目に見えないし触れない。ただ音を奏でるだけの意思。オカルトにも、いろいろな形があるものだと俺は感心していた。 「彼の他にもうひとり、連れて来られていたらしいんだ。ピアノを弾くなり、突然藍にすり潰されたと言っていたが……まぁ、そういう事だろう。それからずっとピアノを弾き続け、俺たちが来るのを待っていたんだと。丸一日以上……。」 病室のドアが開いた。柊夜と烏丸さん、それに白樺さんが入ってくる。白樺さんも怪我はなさそうだ。烏丸さんは両手指に包帯を巻かれていた。 「よう、……大丈夫か?」 柊夜は心配そうに俺を見た。そういう顔をしていると本当に仔犬みたいだなと俺は思ったが口には出さず、頷いた。 「俺は怪我も無いですからね。烏丸さんは……」 「俺? んー、まぁ手は痛いけど、久しぶりにピアノたくさん弾けたし、曲の材料もいっぱい出来てわりと収穫っていうか……だから全然平気だよ」 「あのなぁ……」 白樺さんが溜め息をついた。 「あっ、勿論しゅうちゃんとか……みんなを巻き込んだのはごめんなさい。怖かったし気持ち悪かったけど、俺の音楽がそれほどのものだって改めて実感できたっていうのは、やっぱり芸術家としては、嬉しいもんだよ」 白樺さんは俺のベッドに近づいて、囁いた。「こういう奴なんだ、許してやってくれ」 片喰さんも頷いた。 「烏丸くん、でも、本当に気を付けなければ。あれは楽しい合奏相手なんかじゃないんだから」 「わかってますよ。彼は途中から混ざってきたんです。俺が弾いてるのか、彼が弾いてるのか、分からなくて、このまま連れて行かれるんじゃないかって思ってた時に、しゅうちゃんが来てくれたから……だから戻ってこられた」 烏丸さんは微かに震えていた。怖かったのは本当らしい。それが当然だろう。まだ、歪なピアノの音は、耳の奥底、脳の中に残っている。俯いた俺に、烏丸さんはにっこり笑いかけた。 「いろいろあった所為で、すっかり自己紹介が遅くなっちゃったね。烏丸 恋、作曲とか編曲で食ってます。よろしく、南雲くん。」 「ど、どうも……。南雲です、大学生。片喰さんのところでアルバイト中です」 「そうだ、作業が全然途中だったな。柊夜、好きな時に戻っておいで。俺は先に戻ってるから……南雲くん、」 片喰さんは抱えていたコートを羽織り直した。そして懐から封筒を出し、俺に差し出す。 「バイト代だ。それと少ないけど、迷惑料」 封筒はそこそこの厚みがあった。恐らく俺が手にした事のない金額であることは、その重みだけで察せられた。 「仕事、まだ終わってないのに……」 「これ以上君をウチの事に巻き込む訳にも行かないだろう、本業の方も、いつ何があるか分からないし、何かあってからでは遅い」 それじゃあ元気で、と去ろうとする背中を、俺は呼び止める。 「あのっ! 俺遊びに行きますからね! 来るなって言っても行きますから! まだ本貰ってないですし!」 片喰さんはひらひらと手を振った。その姿がドアの向こうに消えるのを見届け、柊夜はふっと溜め息を吐く。 「あいつ、まだ、人を巻き込むのが怖ぇんだよ。そんなの無理だってわかってる癖に、何でもひとりでやろうとして……ばかなやつだよな、ほんと。」 お前もだぞ、と、少し高い所にある烏丸さんの頭をわしわしと撫でる。烏丸さんはくすぐったそうに笑っていた。 「だからちゃんと助けてって言ったよぉ……ごめんってばぁ。」 「いーや、許さん。ずっと連絡ひとつ寄越さねぇで。ちゃんとメシ食えるようになったらとか言ってた癖に。俺があの店にいるって何時から知ってたんだてめぇ。」 「それは……そのぉ………最初から……あっ痛い痛いごめんって! しゅうちゃん!! ごめんなさいぃー!!」 柊夜はしばらく烏丸さんの両耳を引っ張っていたが、やがてその手で、ぎゅっと烏丸さんを抱きしめた。 「しゅうちゃん、」 「恋が無事で、本当に良かった。」 黒目勝ちの烏丸さんの双眸から、ぼろっと涙が零れ落ちた。声を上げて泣き続ける烏丸さんを、柊夜はずっと、抱きしめていた。 白樺さんが苦笑交じりに呟く。 「見ていられないな、全く」 「俺、白樺さんぐらいの美人さんが相手だったら、ぜんぜん吝かじゃないっすよ」 「それはセクハラだ」 ぴしゃり一刀両断。 残念ながらロマンスは訪れそうになかった。白樺さんは優しい眼差しで、柊夜と烏丸さんを見つめている。 「南雲くん、君を巻き込んだ形になってしまったけれど……本当、皆無事で、良かったな。一時はどうなることかと思ったし、正直今でも信じられないが。」 「白樺さん、」 「私は大丈夫だ。あれが夢でも幻でもないことは理解しているし、烏丸は無事に帰ってきた。それで良い。」 「俺も、そう思います」 勿論、それだけの問題では済まないことも理解している。ピアノの上でイチゴジャム化していた人のこと。あの紳士のこと。それに、気に入られた、と言われていた烏丸さんに、二度と同じ事が起こらないとは言えないのではないだろうか。 でも、今はこれで良いと思った。これで充分だと思った。 俺は不意に後輩たちの顔が見たくなって、枕元のスマホを手に取った。 南雲総一郎の事件簿 あるいは混沌たる奇想曲 完