○森の深淵 鈴掛の死体を前に、ヴィンツは辺りをざっと見渡しますが、特に動くものは見つけられない。 さあっと風が吹き、枝がざわざわと揺れる。 その音に紛れ、かすかに不気味な鳴き声と、羽音のようなものを聞き取った。 「誰もいない…!?そんな訳…!?  何もないわけないだろ、誰かいる…誰かいる筈だ…!」 ヴィンツは、あらためて耳を澄ませるが、鳴き声も、羽音も聞こえない。 それどころか、あまねく動物の鳴き声、羽音、身じろぐ音すら、 森の中は、ただ木々がざわざわと揺れる音だけに満たされている。 レイネスは、周囲を楽しげに見渡している片喰に声をかけた。 「・・・きょろついてるけど、何か見つけたん?」 片喰はきょとんとレイネスを見やり、今までと変わらず微笑む。 「いいや?森の奥深くまで来るなんて経験なかなかないだろう、気分も高揚するものさ。  珍しい小鳥でもいないかな、と思ってね。」 「(また忘れてる・・・?)小鳥、かー。こんな物騒なところ、動物の一匹もいなさそうだけど」 鈴掛の死体を見やり、レイネスはぽつりと呟く。 「物騒?ふむ、君は不思議な感性を持っているんだな。俺には静かで過ごしやすい森にしか見えないが。」 と、片喰は興味深そうに微笑んだ。 その発言と微笑に、一向は顔を青くする。 春日井は、柊夜を見る。 彼はとりわけ、怖がっても驚いてもいない様子だ。 だが、それは鈴掛の死を蔑にするものではない。何かを固く、決意したという顔をしている。 「…動物でも見えてるので? 俺には何も見えないし聞こえないのですが」 ヴィンツは片喰に問いかける。 「そうなんだ、さっきから探してるんだが見つからないんだよ。  森を歩けば小鳥や動物達に出迎えられると文献にはよく書いてあるんだがな。」 「そうですね、普通の森ならば…その筈です。あまりに静かすぎる」 「おや、そうなのかい?まぁ、静かなのは良い事じゃないか。」 片喰は、すうっと気持ち良さそうに空気を吸った。幼馴染の血の匂いが濃い空気を。 「血の匂いは…平気なんですか?」 「血?」 きょとんとして、片喰はあたりの様子を探り、それから鈴掛の死体を視界に納めた。 「……ああ、そういえばそうだったか。」 「……おい。行くぞ。」 柊夜が割り込むように声をかける。鈴掛をちらりと見て。 「ここにいたって仕方ねぇ。奥に行くぞ。こいつは一旦後回しだ。」 「…鈴掛さん」 桜井は、鈴掛の死体を撮影した。ごめんなさい、と一言呟いてから。 「確かにそれはそうだがな…」鈴掛を見つつ「出来れば葬式でもしてやりたい所だが」 「うるせぇ。ごちゃごちゃぬかす余裕は今のうちにおいてけ。」 柊夜の声は冷たく、普段の柊夜からは想像もつかないほど鋭いものだった。 纏う空気もさっきまでとは違うもの、否、異質なものになっている。 「俺から絶対に離れるな、ついてこい。」 その言葉には、簡単には抗えない迫力が感じられた。 柊夜が先頭に立ち、探索者らを率いる形で、暗く、濃厚な花の薫の森の奥へ、進む。 そこで、桜井も、レイネスや春日井たちと同じく、楽しかった思い出がまったく思い出せないことに気が付いた。 何かがすっぽりと抜け落ちた感覚のまま、列に続く。 「…まあ、いっか」とぽつりと呟きながら。 ヴィンツは、アイデンティティを、強く揺さぶられたような心地がした。 この森が、自分の全てを奪っていくような、そんな感覚がする。 おそらく皆、何気ない気持ちでその言葉を口にしているのだろう。 例えば、柊夜も。 柊夜は後ろをついてくるヴィンツを振り返り、一言。 「遅れんなよ、ガイジン野郎」 そう、言った。 立ち止まるヴィンツに柊夜が首を傾げる。 先に進みたいのだろう、苛立ち気味に呼ぶ。「おい、何ぼさっとしてんだよとっとと来い金髪野郎!!」 ……「お前もダメだったか」 と、ヴィンツは誰にも聞こえぬように呟き、それから歩き出す。 「あ、ああ考え事してた!悪い!すぐ行くから!」 「あ?」  聞こえなかったが何か言ったのはわかったらしい。柊夜は苛々と頭を掻く。 「…ちっ、日本語わかってんなら最初からそうしろよ。離れねぇでついてこい。」 「しゅうちゃん速いんだってのー。チョコやるから落ち着けよ」 ヴィンツは、首を絞めるように押さえながら、完璧な笑みでついて行く。 そのヴィンツを、片喰が振り返る。くすっと、楽しそうに笑った。 「……成程。良くできている。実に…精巧に作ったね。」 「……頑張りましたからね」 「そうか。がんばったのか。」片喰はにこっと柔らかく微笑んだ。 「物好きだなぁ。そんなからっぽのものを一生懸命。面白いな、君は。」 あくまで無邪気。あくまで悪意なく。まるで世間話の一端のように、微笑みとともにそう言った。 反応を待ってすらいない。片喰は柊夜の後について行く。 (……知ってるっての) 先頭を行く柊夜が、不意に立ち止まる。 朦朧とする意識の中を手探りで進むと、やがて開けた場所に出る。 彼岸花の群れに囲まれ、そこには一軒の大きな洋館が建てられていた。 吹き抜ける風が、鉄柵の門扉を揺らし、耳障りな音を立てている。 その音は、どこか寂しげな啜り泣きのようにも聞こえた。 どうやらここが、柊夜の目的地だったようだ。 「…すごい風」 辺りを見渡した春日井とレイネスは、至る所に蛇の姿を見止めた。 皆蠢きあって、地面をずるずると這っている。 襲いかかってくる様子はないが、囲まれていることに怖気がする。 「・・・周り。皆気をつけてね」と、小声で蛇の所在を知らせるレイネス。 耳を欹てた桜井は、ひどい耳鳴りに襲われ頭を押さえる。 「大丈夫?なんか変な音した?」 ヴィンツは、かすかに、ブーンという低音の羽音のようなものを聞き取る。 それは機械の駆動音のようにも聞こえ、どうやら桜井は、その音が耳に障るらしい。 なーんか羽音みたいなの聞こえるな…虫かなんかいるのかも。  周り? ほんとだ、蛇だなー。気をつけるわー」 「羽音・・・?」と頭を抱えつつ呟く桜井。 柊夜は、洋館の窓を開けようとするが、木板が打ち付けられている窓は開かない。 片喰は、じっと玄関を見つめている。 「その虫でも食べるつもりなのかな、あのうじゃうじゃしたの・・・キモッ・・・」 レイネスは、洋館の右手にあった古井戸に近づいて覗き込んでみたが、 あやうく手を滑らせそうになって、焦って離れた。 ヴィンツが近づき、同様に覗き込むが、淵には苔のようなものが生え、手が滑る。 「うわーぬるぬるだなー」 「うぇー、ぬるぬる気持ち悪っ・・・」 ヴィンツは、レイネスにハンカチを渡した。 「んお、ありがとーせんせー」 左手側のバルコニーには、何か、石像のようなものが打ち砕かれている。レイネスはそれをじっくりと見る。 もとはそこに聳え立っていたのだろうが、像はぐしゃり、とひねり潰されたように崩れ落ちている。 直径はちょうど一抱えほどある大木程度もあるが、高さは、粉々になっているので、大したことはわからない。 地面から突き出している部分は僅か2、30センチほどだ。 「レイネスさんなんか見つけた?」 「ん、これこれ」 レイネスは、まだ砕かれていなさそうな下の方のぶぶんを撫ぜる。 手に触れる感覚はざらざらというよりもツルツルだ。よほど硬い石を丹念に磨いて作ってあるらしい。 そして、一定の間隔で、網目のような模様が彫り込まれているのがわかる。 「んー、なんだろうこれ・・・すっごい丁寧に磨いてあるみたいだけど」 「何時まで油売ってんだてめぇら」 柊夜は玄関に手をかけている。そこだけが開いているようだ。 「ああ、すみませんね…」 「あ、悪い悪いー」 「へへ、ゴメンゴメン」 玄関は容易く開き、黴臭い匂いがふっと漂う。 薄暗く、じめじめとした通路を進むと、薄明りの灯った広間にたどり着く。 遠目からでもわかる。そこには誰かが佇んでいる。 一行に気付いたのか、彼はゆっくりと振り返った。 それは、一行が探している男、東雲に他ならない。 しかし、君たちは彼の名を、すぐには思い出せなかった。 ぼんやりと彼を見つめていると、やがて、その名を思い出す。 「よう、陣」 東雲は、血糊のべったりついた服を着ている。 顔に大きな傷の治療痕がある以外は、薄汚れている程度で、外傷はない。 東雲は、片喰に愉しげに、笑いかけた。 「…んだテメェ…」 「おや、俺を知っているのかな?」 柊夜は低い声で睨んで威嚇するが、陣は微笑を崩さない。 桜井ははっとして、鈴掛に見せてもらった写真と、彼を照らし合わせる。 「……東雲?」 「シノノメせん・・・せい・・・?」 「……シノノメさん! こんなところで何やってんだ、早く帰るぞ!みんな心配してる!」 めいめい、彼に近づこうとした時だった。 はるか頭上で、ぶつっ、と、何かが切れる音がする。 気付いたときには、力強く突き飛ばされ、がしゃん、という大きな音だけが響いた。 突き飛ばしたのは柊夜だ。落ちてきたシャンデリアが酷い音を立てて砕け散る横で、腕を抑えて蹲っている。 その隙に東雲は走り去る。「もうあまり時間もないんだ。陣、待ってるからな。」 片喰に呼びかけ、暗い廊下へ駆けて行った彼の姿は、すぐに見えなくなった。 「君・・・!」桜井は柊夜に駆け寄る。 彼は相当深く腕を切ったらしい。血がぼたぼたと滴っているが、 触れてほしくないのだろうか、桜井が手を伸ばすと、逃げるように後ずさる。 「…どうしたの?ほら、見せて」 「ッ……いい、寄んな、構うな。」 柊夜は距離を取る。その睨む眼光は鋭い。 「…じゃあ」桜井は救急箱から包帯を取り出し、柊夜へと投げ渡した。 「……っち、いらねぇ世話を…」 東雲が駆け込んだ部屋は、固く鍵がかけられ、閉ざされている。 彼は、時間がないと言った。 それがどういう意味かはわからないが、ゆっくり調べている時間もなさそうだ。 そして、君たちは東雲が立っていた広間の奥、ちょうど食堂へと続く大扉に、何かが打ち付けられているのを発見する。 ひもの地図 それはこの屋敷の地図と、たくさんのメモや、写真や、新聞や、それらが紐でびっしりと繋がれたものだ。 桜井には、この地図は、「蛇籠村事件」を起点として、紐でつなげた情報地図だということがわかる。 「蛇籠村事件」の新聞記事、「蛇籠村」の郷土史資料、事件をオカルト的な角度から切った雑誌記事、 地図:写真、スケッチ、メモ。そんなものがちりばめられ、紐で繋げられている。 メモの筆跡は、ヴィンツや春日井がよく知る、東雲のものに相違ない。 「じゃかごむら…」 【新聞記事部分の情報】 ・「蛇籠村事件」一連の新聞記事 既に知られている情報に過不足ない程度の情報。  一夜にして村ひとつが全滅し、ただ一人の少年が遺されたもの。  猟奇的な手段で村人が鏖されたため、殺人事件と疑われたが、  人の手による犯行としては不可解な点、理不尽な点が多く、事故として処理された。 【オカルト誌の記述】 ・蛇籠村事件にオカルト的な見地から踏み込んだ記事。  事件を「生贄の儀式」と結論付けている。 【メモの記述】 ・乱雑な手書きのメモ。千切れたり汚損していたり、完全に読めるものは少ない。  ほとんど唯一読むことのできるメモは、「俺たちは何も覚えていない では誰が?」 桜井が紐に手を伸ばすと、硬い扉に無理に打ち付けたのがよくなかったのか、 画鋲がいくつかばらばらと落ちてしまった。 ひもの地図は、その形を壊してしまったが、足元に一冊の本が置かれているのが目に入る。 鱗模様の刻まれたその本は、ひやりと冷たい。はたして光明となるか、否か。 第7回へ続く